西地中海クルーズツアーブログ第8章~歴史の旅~チュニジア









【西地中海クルーズツアーブログ~第8章~歴史の旅~豪華客船西地中海クルージング】

《チュニジア》

ハンニバルの祖国カルタゴへ

『始めに』


今日は待ちに待ったチュニジア。13時に入港。たった6時間しか居られない
私のこのクルージングはここに来る為のもの。嬉しい。

チュニジアは波乱万丈の歴史の国だ。
古くは紀元前9世紀頃、フェニキア人による植民都市の建設に遡る。
商才に長けたフェニキア人は地中海の交易で栄え、領土は広く北アフリカ、スペイン地中海諸島に広がり一大勢力となる。拠点はカルタゴと言う都市である。カルタゴ帝国と呼ばれた。


カルタゴ帝国の支配地域
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カルタゴ帝国は、北アフリカ沿岸と南スペインを支配した巨大な帝国だった


カルタゴ帝国は、紀元前6世紀頃からギリシャやローマ共和国との争いを繰り返した。

3回にわたるポエニ戦争が有名だ。

ローマに敗れ、紀元前146年滅亡した。

ローマ共和国の支配地域となり、キリスト教が広がるが、7世紀、アラビア半島で興ったイスラム王朝ウマイヤ朝が北アフリカに侵攻しアラブ人による支配時代がくる。
しかし、ローマ帝国分裂後、西ローマ帝国、グァンダル王国、東ローマ帝国と支配され、その後も、イスラム、アラブ王朝が次々と争い、興亡を繰り返したが、16世紀オスマン帝国属支配域になる。

19世紀、西欧よりの政策と富国強兵策により、フランスによる植民地域の時代となる。
第2次世界大戦時には独伊両国はチュニジアまで敗走し、チュニジアは戦場となり、連合国軍によりチュニジアは自由フランス領となるが、チュニジア独立運動とのゲリラ戦との対抗が続く。

1956年、ムハンマド8世アル.アミーン国王を擁してチュニジア王国は独立した。


前章『シディ.ブ.サイドにて』

さて、13時にチュニジアに着くと、観光地である首都チュニスの郊外、シディ.ブ.サイドに案内された。
ここは地中海を見下ろす小高い丘の上に佇み、チュニジア一美しい町と言われる。

地中海と空のブルー、白壁の家々、青く塗られた扉と窓枠。白とブルーのコントラストが美しい。
ハイビスカスの赤い花も咲いていた。

シディ.ブ.サイド市街
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私もパチリ
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赤い花が咲いてた
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観光地なので、オスマン帝国時代を再現した家の観光を、何語か解らないガイドの頑固おやじが案内してくれた。

オスマン帝国時代を再現した室内
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ガイドの頑固おやじ。
言葉解らず。
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ここぞ地中海と言うほど美しく、土産店もあるが、添乗員に裏路地には入らないようにとくぎを刺される。
そう、ここは異文化の外国なのだ。そして、昔のカルタゴとは全く違う、唯の観光地だった。



後章『カルタゴにて』


ようやく、次に待ちに待ったカルタゴに行く。カルタゴはチュニス郊外北12キロほどの湾岸線に沿ってある。
現在残っている遺跡はフェニキア時代とローマ共和国入植後のものがあるはずだ。最高にわくわく高まっている。
バスで着いた。灼熱の太陽が照りつける。

待っていたものは、、。

フェニキア人時代の遺跡は何もない!校庭くらいの赤土の地面に、大きな石が幾つか転がっているだけ。
カルタゴは無いのだ!
後は、ローマ時代に建てられた建造物の残りがあるだけだ!
添乗員に、何もない、、と泣きそうな気持ちで言うと「既に古代の神話の世界ですから」と言われた。


カルタゴ遺跡~石が転がっているだけの跡地

一部の石塀はローマ時代の物
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ローマ水道遺跡
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ローマ時代の小さなコロッセウム
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みんなで見学にいきます



ローマ共和国に支配された後、イスラム文化が入った為、ローマ時代の銅像は全てクビを切られている。また、建造物も事の如く壊されていた。

クビを切断された銅像
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ここがカルタゴだったのだ。
カルタゴの英雄、ハンニバル.バルカが生まれて9歳迄過ごした土地。
きっと美しかったろう。豪華な建造物が海辺に建ち、地中海を望めただろう。
その後、ハンニバルは父親がカルタゴ支配下のスペイン総督になった為、スペインで育つ。
父親の死後、26歳で総督就任となる。
全権を握った彼はスペイン制覇した後、29歳で、全軍を率いてローマに向かう。

紀元218年、第2次ポエニ戦争が開始されたのだ。

ハンニバルは現フランスに入りローヌ河を渡り、アルプスを越えてイタリアに進攻する。
父親、ハルミカルが第1次ポエニ戦争で破れた為、その意思を継ぎローマを撃破する為と言われている。

ローマの防衛線は紀元前218年の時点で、東、西、南とも鉄壁であり唯一残った北からのアルプス越えを考えたのだ。
まるで、源義経のひよどり越えの戦いの戦術だ。

ハンニバルの率いた軍勢はフランス、エプロ河を渡った時点で歩兵5万、騎兵9千、37頭の象であったが、標高2000m前後の冬のアルプス越え。
難事業であり、イタリアに入った時点で軍勢は歩兵2万、騎兵6千と僅かの象に減ってしまっていたという。


まさに、精鋭のみの粒揃いの集団が残った。

ハンニバルの戦法は、アレクサンダー大王の戦術を徹底的に学んだ事による包囲戦と奇襲戦を得意とする。

さらに、充分な情報収集をしてから。

ローマ国土内では、数々の戦いに勝利する

当時のローマ共和国は、数で正面からぶつかり合う戦法しか知らない。
ティチーノ、トレッビア会戦、トラジメーノ会戦、そしてカンネの会戦でローマ軍は大敗を喫する。

ハンニバルは、南イタリア諸都市を攻略するが、カルタゴからの援軍は来ない。
彼の弟達も、スペインでローマ軍と戦っていたのだ。ハンニバルの次弟が、アルプス越えをしてイタリアに駆けつけたが、ローマ軍に破れ首は、ハンニバル陣営に放り投げられたと。
また、ジェノバに着いた援軍もローマ軍に破れカルタゴに引き返す。


ハンニバルは、ローマ国土で孤立するのだ。
ローマと戦う武将はハンニバルひとり。
ローマ国内を転々と戦いめぐる。

その頃、ローマ軍にスキピオと言う、名将が現れる。

ハンニバルがスペインで蜂起したとき17歳、本国に逃げ帰りハンニバルの戦法を充分に知ってしまう。
ローマ国内を転々と戦っているうち、ローマ軍はハンニバルから戦い方を学んでしまうのだ。

ザマの会戦で、ハンニバルとスキピオが激突。ハンニバルは破れる。

この時、ハンニバルは45歳、スキピオは33歳。
カンネの会戦で勝ったハンニバルは逆にスキピオに同様に子飼いの兵士達が殺されるのを見る。

ハンニバルの戦士はザマで全滅した。


陽は灼熱で陽炎が立っていた。私はカルタゴの赤い土塊に座り海を眺めていた。カルタゴ博物館で貰ったパンフレットを手に見ながら。

パンフレットの写真~ローマ時代の浴場の跡
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カルタゴの中心都市はこの様な地形だったらしい。中心に宮殿を要し、港が整備され海洋交易が盛んだったという。

カルタゴの中心と港
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フェニキア人を知らないが、ハンニバルはこの像の様に、筋肉質のがたい、褐色の肌に甲冑を纏っていた事だろう。

ハンニバルの銅像(Wikipediaより)
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ハンニバルが居たなら尋ねたい。

何故、イタリアに攻め入ったのか?唯の復習か?
アルプス越えで半分の兵士や騎士、象が崖の下に落ちて行く悲鳴をどう聴いたか?
イタリア内で援軍もこず、子飼いの兵士と共に戦い巡った時、何を考えたか。
子飼いの兵士と共に座して眠り、敵が前だろうが後ろだろうが駆けつけ戦い、戦士達は心からハンニバルを信頼した。
しかし、ザマで敗れ、カルタゴに帰る時、半分の兵士を置き去りにし見殺した。何故か?



ザマで敗れた後、カルタゴとローマ共和国は講話を結び属国になる。

ハンニバルはカルタゴに帰った。しかし、ローマ共和国はマケドニアと戦争になり勝利し、続いてシリアと戦う。
ハンニバルはシリアと通じていると疑惑を受け、シリアに亡命し、
紀元前183年、毒をあおいで自殺する
奇しくも、ザマで戦ったスキピオも同年死亡した。

カルタゴはローマ共和国と講和後、50年近く平和と復興を果たすが、紀元前149年、対ローマ共和国と第3次ポエニ戦争が起きる。
そして、紀元前146年、カルタゴは市街地に攻め入られ、市街戦が6日6夜続いたと言う。

カルタゴ市は炎上し、5万人のカルタゴ市民が奴隷となり、落城した。落城後のカルタゴは神殿も家も建造物全て破壊され、石と土だけになった地面は平らにされ、一面に塩を撒かれたという。
草も生えない不毛地帯にされたのだ。



荒れ野として残ったカルタゴのドック跡地
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それが、ここ、私の座っている赤土の地面なのだ。
700年もの間、カルタゴは広大な地域、陸、海共に支配して来た強大な豊かな国だったのに。

ハンニバルがローマ共和国で16年もの間戦った為、ローマはハンニバルの戦術を学び、古代ローマ帝国と言う強大な国家となり地中海沿岸に君臨する。

しかし、イスラムの侵略に敗れ、古代ローマ帝国も滅びる。全ての銅像の首が落とされているのはこの為だ。
「盛者必衰の理を表す」まさに、このことだと思った。

ハンニバルの時代、戦争は侵略である。現代、善が悪を罰すると言う大義で戦争が起きる。

どう違うのか?ハンニバルなら言うだろう。人間の本質は変わらないと。

眼下の廃墟と赤土と、地中海の紺碧の海にも、夕暮れを迎えようとしていた。
現在の丘から眺めるカルタゴの港は写真の様に再現されている。

現在のカルタゴ湾
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私は目に焼き付けた。ハンニバルのカルタゴを。





この記事へのコメント

  • 何度でも、同じ事を繰り返す。大義という名前でお化粧した欲望の為に。。
    兵隊は、ただのこま。同じ人間とは、みなさない。奴隷と同じ。
    2015年06月21日 13:01
  • ふふ

    そうですね。今も、絶えず戦争は続いています
    2015年11月07日 11:28